彼の本は,たぶん読まない。今は選ばない。マルク・レビンソンの新しい本はきっと読むと思います。
けれども,その前に万城目学を読むます。彼のこの本を読みます。
その辺の学者や評論家より明らかに優秀で頭のいい人物は作家になってしまうのでしょうか。
あかいとり の 偽ソクラテスの弁明
彼の本は,たぶん読まない。今は選ばない。マルク・レビンソンの新しい本はきっと読むと思います。
けれども,その前に万城目学を読むます。彼のこの本を読みます。
その辺の学者や評論家より明らかに優秀で頭のいい人物は作家になってしまうのでしょうか。
目の前にあるのに見えていない。よくあることだ。数字を使って説明していれば正しく聞こえる。大切なのは使い方なのだ。
何回も説明したのに,くどいほど話したのに。DATAの使い方が間違っていないか検証しろ,と。
なんてことは彼らには説明しなくなった。テレビに居場所を与えられたモノには,ことばが通じなくなる。全員に,ではないけれど。
ぼくに責任感などないけれど,義務感なんてありはしないけれど。ぼくの怠慢は暑さのせいだけではない。ぼくにはもともと良心なんてないのだ。元来,怠惰なのだ。
携帯を着信拒否にして,この季節にも送ってくれた友人の汗のたまものを肴に酒を楽しむ。夏は暑いのだ。夏はここちよい季節なのだ。
wowowのドラマを流しながら,ぼくは別の景色を眺めていた。1998年の京都の風景だ。登場人物も当然別の人物だ。
映し出される景色の中にぼくらはいた。たぶん10月10日だった。数年ぶりに改札口を出たぼくにとって京都の町は新鮮だった。地下鉄が走った日だった。
物語はない。語るべき話はない。けれども,なつかしい街だ。あれから一度も足を踏み入れていない。
京都の範疇に,書き込まれている女の子が三人。おそらく三人だと思う。彼女たちの物語にも続きはない。
吉岡秀隆=純は,雪の海岸に立っていた。唐十郎も岸谷五朗もいたなぁ。ぼくの思いは筋違いの方向に飛んでいく。知床は極寒の地だ。
ウクライナはアレクシェーヴィッチを呼び出した。哀しく優れた作品だ。
人間はいつまで経っても歴史に学ばない。人間?もちろん,ぼく自身のことだ。平和ぼけのぼくは,ウクライナやロシアのことを頭の隅の整理箱の中に詰めこんで,そこに住むひとたちのことを考えてもいない。知識はたいして役に立たない。
メタバース・・本気でしゃべる友人がいる。熱心に力説する友人がいる。
NFS・・・僕はそこが世界だとは思っていないんだ。
あんな小さな画面の向こうに世界が広がっていると思い込んでいる彼らは,・・・悪口ではないのだけれど
ただただ,消費者として載せられているだけなのだと気付かない人たちが悲しい。スマホ・・そんなものなくたってなにも困らないのだよ。・・と言いたいけれど。汚染はひろまっているのだ。
映画マトリクスの風景はフィクションなのだよと言わなくてはならないのだろうか。
今日の夕刻になって,やっと発見です。
物覚えが極端に悪くなっています。もともと,それほど記憶力がいいわけではないから,ここへきておもしろいほどボケているわけで。
上巻を読み流していて,そろそろ,下巻だと思ったのだと思う。目の前にあるはずの本がないことに気付いたのは,数日まえのこと。ことばを濁しているけれど,正確な日付は覚えていない。
どこかで表紙をなくしてしまった上巻と,まだ表紙が生き残っている下巻は,1階の本箱の同じ棚に横並びにあったのだから,そもそも一緒にこの部屋に運んできたはずだったから。
数日前にちょっとした地震があった。と,発見できない理由をこじつけた。